那智勝浦町。この名前を聞いても、どこにあるどんな町なのか、どんな特徴のある場所なのか、まるでイメージの湧かない人のほうが多いだろう。しかし「生マグロ日本一」というキャッチフレーズをそこに付け加えれば、少し聞いたことがあるような気がしてくるのではないだろうか。
日本人が愛してやまない食材――マグロ。和歌山県の東端、本州最南端部に位置する那智勝浦町は、そんなマグロが水揚げされる日本有数の町であり、延縄漁による「生マグロ」の水揚げ高が日本一になったことでも知られている。
2023年7月現在、「那智勝浦」とgoogleで検索すると、サジェスチョンに「マグロ」が表示される。また、那智勝浦町観光の中核駅である紀伊勝浦駅を降りて少し歩けば「マグロ」を看板に掲げた店が多いことがわかるはずだ。那智勝浦は現在まさに「マグロの町」なのである。
しかし、那智勝浦が名実ともにそうなったのは、けっして古い話ではない。日本でマグロの消費量が爆発的に増えたと言われる江戸時代から明治時代にかけて、那智勝浦はマグロの町ではなくむしろ「サンマ」の町だったのである。
では、那智勝浦はどのようにして、現在のような「マグロの町」になっていったのだろうか。本記事では那智勝浦の歴史を簡単にたどりながら、その経緯をたどっていく。
那智勝浦のなりたち
まず簡単に那智勝浦町の地図を見てみよう。現在の那智勝浦町は、複雑に入り組んだ海岸線から、山奥に深く入り込んだ那智大社などがある那智山、棚田などで知られる色川地区まで広大な土地にまたがっている。このうち、現在「マグロの町」という様相を呈しているのは、主に勝浦漁港の周辺の地域である。
※なお、行政的区分としての現在の那智勝浦町は、1960年にかけて段階的にいくつもの町が合併してできたものである。
先史時代の那智勝浦についてはあまりわかっていないが、海岸沿いにある下里と呼ばれる集落には「下里古墳」があり、古墳時代にはある程度の勢力を持つ人々がここに住んでいたことがわかっている。
また、この地域は古くから聖地として知られる「熊野」の一部であり、現在世界遺産となっている熊野那智大社を含む熊野三山には盛んに参拝が行われた。平安時代に入ると、天皇・上皇などをはじめ、多くの人が熊野詣でに訪れ、その様子は「蟻の熊野詣」と称されるほどであったという。
江戸時代に入ると、那智勝浦は紀伊国、奥熊野の一部として、新宮領主の水野氏によって統治されるようになる。この時期には多くの産業が花開き、活況を呈した林業のほか、交通の要所としても栄えた。那智勝浦では、米栽培や茶の栽培、紙、林業、捕鯨なども行われたと記録されている。
では、漁業はどうだったのだろうか。
天然の好漁場――那智勝浦と漁業
海岸線が長く黒潮が沿岸近くを流れる天然の漁場であった那智勝浦は、採れる魚種も豊富で古代より漁業が営まれてきた。また隣町の太地町とならんで那智勝浦では捕鯨も盛んであったことが知られる。例えば江戸時代初期には長崎や五島列島などから捕鯨を学びに27名が訪れていたという(那智勝浦町史 203頁)。
捕鯨とならび、那智勝浦の主要な漁獲物であったのが、サンマとカツオである。
現在サンマといえば東北など北のイメージが強いが、11月から5月にかけて、サンマは那智勝浦のあたりまで回遊してくる。このサンマはいわゆる脂がのったものではないが、味が良くこの地域で大変好まれた。現在でも那智勝浦や近隣地域では、サンマ鮨や、サンマの丸干など他地域にはあまり見られない食習慣が残っている。
サンマ漁は網を使った漁法の発展などによって盛況になり、那智勝浦の港には伊勢や和歌山の雑賀崎などからも漁船がやってくるなど、サンマ漁の一大拠点となっていた。また、沿岸部の漁村のほとんどがカツオ漁に従事するなどカツオの量も多く、鰹節の生産も盛んに行われていたという。
しかし、明治維新以降、漁船の機械・大型化が進み、漁業は大きく様変わりする。政府は沿岸から、沖合、そして遠洋へと漁業の拡大を促した。そのことでサンマの主要な漁場は東北の沖合へ移り、那智勝浦周辺でのサンマ漁は下火になっていった。また、那智勝浦の沖合にやってくるサンマの量が激減したことなどもそれを後押ししたという(那智勝浦町史 209頁)。
サンマ・カツオの町から生マグロの町へ
では、秋刀魚やカツオの町だった那智勝浦は、いつ頃からマグロ漁に取りくみ始めたのだろうか。正確な記録は残っていないが、文化人類学者の浜口は、那智勝浦の移民史や統計記録から、大正時代の初期にはマグロが当町の主要漁獲物の一つとなっていたとしている(浜口 204頁)。
大正から昭和にかけてマグロ漁の遠洋漁業化が進んでいったこと(柏尾 727頁)を考えると、第2次世界大戦前頃まで、那智勝浦もまた遠洋でのマグロ漁に従事していたと考えられる。また、戦後においてもその傾向は強かったはずだ。
マグロ漁の網元として那智勝浦で長く働いてきた立木吉也さんは、那智勝浦に戻り漁師になった1961年頃をふりかえり、次のように語っている。
「当時、水産庁がマグロ漁船の建造を奨励するようになって、金融公庫からお金が容易に借りられるようになり、マグロ漁船がうんと増えて一気に活気づいたんだね。僕もそれに惹かれて、地元に帰って漁業をやることにしたんだ」
https://colocal.jp/area-magazine/no04-nachikatsuura/18/
ここでも語られているように、1960年代頃まで、那智勝浦はマグロ漁を行う町として活況を呈していた。しかし、1980年頃になると状況は変化する。1980年代に出版された『那智勝浦町史』の下巻には、はっきりと次のように記されている。
「那智勝浦は、かつては鮪の町・秋刀魚の町として栄えてきたが、今や鮪の遠洋漁業の基地として、天下に広く紹介されている」
那智勝浦町史 211頁
つまりこの時期には、那智勝浦は自らマグロ漁を行う町というよりも、遠洋漁業に行く漁船が立ち寄る「基地」として有名になっていたのである。
ここで一つ重要な点がある。それは、 1970年頃に那智勝浦で水揚げされていたマグロのほとんどが、「遠洋」で採れたものであったということだ(那智勝浦町史 208頁)。遠洋漁業は通常一ヶ月以上海の上にいることが多く、そこで漁獲された魚は冷凍される。つまり現在那智勝浦町の代名詞になっている「生マグロ」は、まだこの時期には勝浦漁港でほとんど水揚げされていなかったということになる。
では、その後どのようにして那智勝浦は、「生マグロ」の町になっていったのか。2001年12月5日に掲載された読売新聞大阪朝刊の記事には「漁港は生マグロの水揚げ高近畿一として知られ、一九九二年、百五十億円を記録した」と書かれており、90年代にはすでに生マグロの主要な港として知られていたことがわかる。つまり、80年代から90年代にかけて、那智勝浦はマグロの遠洋漁業の基地から、マグロの延縄漁を行う近海漁業の基地へと変貌していったことになるだろう。
ここで何が起きたのか。それについては十分な資料を見つけられなかったため、次の機会に譲ることとしたい。
おわりに
ここまで、那智勝浦町がどのようにして「生マグロ」の町になっていったのか、その経緯を追いかけてきた。サンマ漁・カツオ漁が中心だった那智勝浦は、大正期周囲を境にマグロ漁へと転換し、さらに1980年代には遠洋マグロ漁の基地へと変貌。そして90年代にかけて、さらに近海でのマグロ漁の基地、すなわち「生マグロ」の町へと変化していったのである。
歴史は町の細部に宿る。那智勝浦の漁港まわりを歩くと、ここでは記し切れなかった多くの変遷が、風景のいたるところに刻まれていることがわかるはずだ。ぜひ那智勝浦を訪れた際には、その変化に思いをはせながら、町並みを楽しんでほしい。
参考資料
- 井出幸亮(2012)「Area Magazine 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町」『colocal』https://colocal.jp/area-magazine/no04-nachikatsuura/18/(2023年7月20日閲覧).
- 柏尾昌哉(1955)「カツオ専業漁業とマグロ専業漁業の生起 : 日本におけるカツオ・マグロ漁業の発展(3)」『關西大學經済論集』5(6): 713-738.
- 田辺悟(2012)『鮪(まぐろ)』法政大学出版局
- 中野秀樹・岡雅一(2010)『マグロのふしぎがわかる本』築地書館.
- 那智勝浦町史編纂委員会編(1980)『那智勝浦町史』上・下
- 浜口尚(2011)「マグロ類の利用に関する一考察」『園田学園女子大学論文集』45: 195-214.